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人生ぬるま湯主義

つれづれなるままに以下略

他者の欲望を欲望しない

この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい(笹井宏之)


 はじめて読んだとき、よくわからない歌だ、と思った。
 いまでも、よくわからない歌だ、と思っている。
 だから、以下では、この短歌の「わからなさ」について、書いてみよう。

・「この森」がわからない
 この森とは、この短歌の発話者がたまたま訪れている森なのか、住んでいる森なのか。西洋の童話に出てくるような森をイメージすればいいのか、日本の山の中の森を思い浮かべるべきなのか。わからない。

・「軍手を売って暮らしたい」がわからない
 そもそもその森は商売ができるような森なのか。軍手を作って売るのか仕入れてきて売るのか。誰の、どんか需要を見込んでいるのか。わからない。

・「間違えて図書館を建てたい」がわからない。
 間違えなかったらどうなるというのか。「~たい」と言っている時点で間違いではないのではないか。図書館を建てると何がうれしいのか。森に図書館を建てて利用者は訪れるのか。わからない。

 この短歌を読んでいるとき、僕の頭は、こうやって最初から最後まで「わからない」で埋め尽くされる。けれど、なぜそんなにもわからないのだろう。

 三句と結句が「~たい」で結ばれているから、欲求・欲望・願望を詠んだ歌であることはわかる。しかし、いささか以上に奇妙な願望だ。
 歌人枡野浩一は、『一人で始める短歌入門』の中で、


ネットでも探せるんだし もうちょっと素敵な部屋で引きこもりたい(シャイガイ)


 という短歌を取り上げて「奇妙な欲望短歌」だと指摘している。ここではその他の具体例として、


絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい(枡野浩一
シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい(斉藤斎藤
鎌倉で猫か誰かと暮らしたい 誰かでいいしあなたでもいい(佐藤真由美


 という三首が挙げられている。
 それでは今回取り上げている笹井宏之の短歌も同じような「奇妙な欲望短歌」として読めるのかというと、そう単純にはいかないのだ。上の四首と笹井の歌には、質的な違いがある。
 たしかに奇妙な欲望であるとはいえ、シャイガイの短歌は「快適な空間で過ごしたい」、枡野の短歌は「愛し合いたい」、斉藤の短歌は「恥ずかしい姿を見られたい」、佐藤の短歌は「理想の同居人がほしい」という欲望を詠んだものだ。奇妙にねじれていたり肥大していたりはするものの、その元となる欲望を、僕たちは知っている。
 ところが、「この森で軍手を売って暮らしたい」や「まちがえて図書館を建てたい」といった具体的欲望からは、僕たちが知っている抽象的欲望を取り出すことが困難なのだ。別の言い方をすれば、軍手を売ることや図書館を建てることが、どんな欲望を表す記号なのかが読みとれない、ということだ。
 つまり、この短歌の「わからなさ」というのは、表面的・具体的な「~たい」という願望が、どんな欲望のあらわれになっているのかさっぱりわからない、という「わからなさ」なのである。

 ある作品が「わからない」とき、読み手として僕らが選択できる態度は二通りある。ひとつは、「私には、この作品を理解するための知識や経験、あるいは感性が何かしら欠けているために理解できないのだ」と考えること。だが、それが何なのかを自分で意識的に発見することは、むずかしい。それでは「わからない!」と言ったまま話が終わってしまうので、ここでは、もうひとつの態度を採用してみようと思う。つまり、「わからないということに意味があるのだ」と考えるのである。
 
 人間の欲望の在り方について、「他者の欲望を欲望する」という言葉を残したのはジャック・ラカンだった。ところが笹井の短歌では、発話者は誰かが欲しいものを欲しがっているわけでも、誰かに欲されたいと思っているわけでもない。彼(彼女)の欲望は、完全に自己完結している。他人と共有されることのない、きわめてオリジナルな欲望だ。
 だから、読み手は、彼(彼女)の欲望を理解することができない。理解されてしまった時点で、それは「自分だけの欲望」ではなくなってしまうから。
 個性、というとき、僕たちは、「自分だけの特性」という意味で使っている。しかし、完全な個性などそうそうあるものではない。何を身につけ、何を読み、何を欲しがるか、そのそれぞれは、誰かと「被る」のがふつうだ。僕たちが「個性」と呼んでいるものは、その組み合わせ方に過ぎないのではないだろうか。
「同じものを欲している誰かがいる」という事実は、個性を少しだけ失わせるようでいて、同時に、「仲間がいる」という安心感も僕たちにもたらしてくれる。社会で人と繋がっていく、という感覚だ。
 けれども、「まちがえて図書館を建てたい」と語るこの人物は、それを拒絶する。彼(彼女)が表明している欲望は、彼(彼女)にしか理解できない、他者の欲望とは無縁の欲望である。逆に言えば、「完全にオリジナルな個性」を表明しようと思ったら、それは他の誰にも理解されない形になるしかない、ということを表している。

 でも、理解される必要のない欲望を、それでも言葉にする意味は何だろう。どこかで理解されたいと思っているのか、それとも、自分は理解できない人物だということを理解されたいのか。
 僕は、自分のいろいろな欲望だって、最終的には、誰かに理解されたい、と思う。誰にも伝わらない自分オリジナルの欲望は、まだ抱いたことがないし、今後も抱くことがないだろう。
 ゆえに、どうしても、この歌をめぐる議論は、次の一言に帰着してしまう。

 そう。「わからない」のだ。どうしても。

一歌談欒Vol.3

一首の短歌をとりあげて、複数人でその歌について語ろうという企画「一歌談欒」。第3弾のご案内を申し上げます。

 

今回の課題短歌は、

 

この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい(笹井宏之)*1

 

です。
この短歌をもとにして、「解釈レポート」でも「感想文」でも「エッセイ」でもなんでも構いません、お好きな文章を書いてください。字数制限も特には設けません。

 

ブログやnoteなどの記事投稿サービスに記事を投稿していただいて、指定された日時にハッシュタグ「#一歌談欒」をつけてTwitterでリンクを共有してください。その後、当ブログ内で記事へのリンクをまとめさせていただきます。

 

記事の公開〆切は、2016年12月18日20時とさせていただきます。
ハッシュタグをつけ忘れると僕が見つけられない可能性がありますので、ご注意のほどを願います。

 

なお、事前に参加を表明していただく必要は特にございません。記事の公開およびTwitterでのリンクの共有をもって参加とみなします。

 

 

 

なにかご不明な点等ございましたら、.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までリプライまたはDMでご連絡ください。
それでは、皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

 

 

※今回の課題短歌は、前回に引き続きなべとびすこさん(Twitter:@nabelab00)からいただきました。

*1:山田航編著『桜前線開架宣言』(2015左右社)より引用

岡本真帆さんはこんな短歌を詠んでいるんだぜ(20選シリーズ)

じゃんけんパー勝って飛びつくえりあしは塩素のにおい 夏が始まる

 

無駄なことばかりしようよ自販機のボタン全部を同時押しとか

 

ドリンクバー押すと交互に降り注ぐコーラとコーラではない何か

 

さわやかな風がそろりと入る網戸バリバリバリバリねこバリバリバリ

 

ゴミだって思ってみたび触れてしまう表紙の中の小さな鳥に

 

本来の服の持ち味殺してる私の服の組み合わせ方

 

砂浜のSOSを踏み潰し、ここは異常のない無人島

 

特別なことは一つも訪れずさなぎのままで秋の制服

 

たいせつな話なら今聞きたくない 遮るための電車を願う

 

くるくると夏のコンパス正しさを描いてふたり離れて眠る

 

謝らない通行人の頭部見る 傘の先端とんがっている

 

無駄なことだと言う大人 無駄であることがどうして分かるのだろう

 

壊れたものでもかまいません壊れたものでもかまいません、かまいませんから

 

廃線をたどっていこう これ以上雑踏に染まるのはごめんだ

 

感情をあまり出さない君がする嬉しいときのへたなスキップ

 

シャーペンの芯を逆流させている君には罪の意識などない

 

新しい顔はもういい バタコさんきちんと死ねる心臓をくれ

 

まきびしのはずだったのに敵陣にはじけるこんぺいとうこんぺいとう

 

まだ何かあるんじゃないかと期待するエンドロールの後の一瞬

 

何気なく打った数字で開く鍵 ねえこの四桁って、わたしの

 

(written by 岡本真帆:https://note.mu/mapiction

 

 

 

 

岡本真帆さんの短歌には、どこか寂しげな雰囲気のものが多い。寂しげ…というか、心の中に何か欠けた部分を持っている主体を感じるような。「ここではないどこか」へ行きたがっている、と言ってもいいかもしれない。

日常の景色を歌った寂しげな歌の中に、非日常を歌ったドキッとするようなサスペンスめいた歌も登場する。

静かなトーンなんだけれども、それは「何かを抑えている静かさ」なのかもしれない、と感じられるような、そんな短歌の数々。

 

 

 

 

ぬいぐるみ抱いた少女はあの日々に置き去りにした ごめんね 走る(根本博基)

 

一歌談欒Vol.2まとめ

ある一首の短歌について、みんなで好きなことを語っていこうという企画、「一歌談欒」、第二回の参加エントリーまとめです。
今回は、

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)*1

 

という短歌についてみなさんに語っていただきました。
以下に、個別記事へのリンクをまとめておきます(Twitterハッシュタグ付きツイートが投稿された順)

 

本条さん。
下の句の表現について、様々な可能性を提示しながら考察し、感じたことをまとめています。

honjo-zo.hatenablog.com

遠音さん。
この歌から感じた死のにおいとそれに対する恐怖について。

ときあざ:一歌談欒Vol.2に向けた短歌鑑賞

 

五條ひくいちさん。
フロイトを援用しつつ、「死への魅力」を軸にこの歌を読み解いています。

【一歌談欒 vol.2 】ポエジーに触れるということ - ひくいちの研究室

 

本多響乃さん。
短歌を頭から読みながら、その文字列から受ける印象を語っています。文学フリマ東京2016、足を運べるかたは、是非。

hibikino.cocolog-nifty.com

 

中本速さん。
テンポのいいリズミカルな文体で、「理解できない人は下がって」について語っています。

note.mu

 

さはらやさん。
快速電車を理不尽な社会の象徴と捉え、「下がって」という言葉の解釈に独自性があります。

saharaya.hatenablog.com

 

なべとびすこさん。
今回のテーマ短歌の発案者でもあります。暗いイメージで読まれることの多いこの歌をポジティブにとらえています。さはらやさんの読みとも通じる部分あり。

nabelab00.hatenablog.com

 

中家菜津子さん。
短歌結社誌「未来」掲載の過去記事をツイートしていただきました。

 

宮本背水さん。
テーマ短歌が伝えるメッセージは「伝わらないメッセージ」だとした上で、「理解できない人」に対して「理解できる人」、加えて「理解しようとした人」という存在を仮定して考察しています。

note.mu

 

太田青磁さん。
テーマ短歌の鑑賞から入り、収録歌集『uta0001.txt』にも言及されています。

seijiota.hatenablog.com

 

.原井。
下の句「理解できない人は下がって」の伝えるメッセージと、この発話が成される場について考察してみました。

dottoharai.hatenablog.com

 

中山とりこさん。
作者である中澤系さんのプロフィール等をもとに短歌を読み解こうという試み。ご本人がこの歌から思い出したエピソードも。

note.mu

 

中澤瓈光さん。
テーマ短歌の作者である中澤系さんの妹さんからもご寄稿いただけました。この歌を通して、中澤系さんについての短いエッセイです。

#一歌談欒 2 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系 (『uta0001.txt』(新刻版)、双風舎)

 

Ryotaさん。
ミシェル・ゴンドリーの手によるミュージックビデオを引用しながら仕上げられたエッセイは、読者のものの感性に揺さぶりをかけるようです。

note.mu

 


冨樫由美子さん。
テーマ短歌の「改悪例」を示すことによって、表現の「かけがえのなさ」を指摘。

note.mu

 

えんどうけいこさん。
下の句「理解できない人は下がって」から感じる冷たさについて。

note.mu

 

朝胡さん。
テーマ短歌をもとに掌編小説を書いていただきました。

privatter.net

 

kazaguruMaxさん。
「理解」という語について、感じることを様々書いていただきました。

kazagurumax.hatenablog.com

 

堂那灼風さん。
短歌の宗教的・精神的性格から切りこんで、テーマ短歌を考察しています。

note.mu

 

安堂霊さん。
テーマ短歌の言葉の冷たさと無機質さについて。

note.mu

 

ナタカさん。
ひとつのツイートに収まる分量で完結に語っていただきました。

 

西淳子さん。
「なぜ3番線なのか?」「理解できる人は?」というふたつの問いについて。

note.mu

 

みちくささん。
「駅のアナウンス」からマニュアル社会を連想し、それを軸にテーマ短歌を読んでいます。

みちくさばっかり 一歌談欒vol.2 中澤系

 

カメヤママコトさん。
ディストピア」をキーワドにこの短歌について語ったツイートです。

 

麟太さん。
テーマ短歌をもとにした、駅のホームを舞台にしたエッセイのような小説のような。思索的ですがどこか詩的な雰囲気のある文章です。

sanary.hatenablog.com

 

 

以上、24名(僕を除く)の方にご参加いただきました。ありがとうございます。
一歌談欒、今後もどうぞよろしくお願いいたします!

 

 

 

 

なお、一歌談欒ではテーマ短歌を募集中です。「この短歌が好きだからみんなにもかってほしい」「この短歌、よくわからないからみんなの意見が知りたい」「いいから俺の歌を読め」等、読んで語りたい短歌を.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までお寄せくださいませ!

*1:中澤系『uta0001.txt』(新刻版)2015双風舎

理解できない人は下がって

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって*1

 

 

 中澤系による短歌である。駅のホームでのアナウンスだということはわかる。しかし、だとすると、いささか以上に奇妙なアナウンスだ。「3番線快速電車が通過します」。ここまではいい。しかし、僕たちが日常聞き慣れているあのアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続くところが、この歌では「理解できない人は下がって」となっているのだ。
 これから、この奇妙なアナウンスについて考えていきたい。問としては、大きく次の2点である。ひとつは、この奇妙なアナウンスが伝えるメッセージとは何なのか。そしてもうひとつは、このメッセージが発話される“場”とはどのようなものなのか

 

なぜ「理解できない人」が宛先なのか

 まずは、この短歌が切り取っているアナウンス、その伝えるメッセージを読み解いていきたい。まず上の句の「3番線快速電車が通過します」。これはただ事実を伝えているだけの言葉だ。続く「理解できない人は」の部分で宛先が指定され、「下がって」と指示が伝えられる。ここでいう「理解」する、の目的語は、上の句の内容「3番線快速電車が通過します」と捉えて問題ないだろう。
 
 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことが「理解できない人は下がって」
 
 というわけだ。いや、快速電車が通過する、という物理的現象というよりも、そのことがもたらす人間への影響(主には危険性)を、言いかえれば、快速電車が通過するということの意味を、「理解できない」と言った方がより適当かもしれない。するとこのアナウンスは、

 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことの意味が「理解できない人は下がって」

というふうに言葉を補ってまとめることができそうだ。
 駅を通過する快速電車は、ホームにいる人にとっては危険な存在だ。だから、危険を避けるためには後ろに下がる必要がある。このことに異論をはさむ余地はないだろう。問題はメッセージの宛先である。
 このアナウンスは、「理解できない人」に対して発せられているのである。なぜ、「理解できる人」に対しては「下がって」と言わないのか。
 考えてみれば、それは彼らが「理解できる人」だからに他ならないのではないだろうか。「理解できる人」たちは、快速電車が通過する、と聞いた時点で(この時点ではアナウンスの宛先は明かされていないから、彼らもアナウンスに耳を傾けているはずだ)、そのことが何を意味しているのかを理解し、適切な行動をとることができる。
 別の例を想像してみよう。お菓子などを買ったときに、袋の中に乾燥剤が入っていることがある。そこには「乾燥剤」の文字と、「たべられません」の注意書きが書いてあるはずだ。ところが、その注意書きを注視する大人は少ない。それが乾燥剤で、食べられないものであることを理解しているからだ。
 なにが危険で、どうしてはいけないか/どうするべきかを知っている人間には、「危険だからこうするな/こうしろ」という注意は意味を持たないのである。だから、「下がって」という指示は、もっぱら「理解できない人」に対して発せられることになる。
 余談だが、この記事を書くにあたって、グーグル検索で出てくるこの短歌の解釈についての記事をいくつか読んでみた。「理解できる人は下がらなくていい、飛び込む権利が保障されている」ということに大きな意味を見いだそうとする記事がいくつかあったように思う。だが、仮にそうだとして、たいていの「理解できる人」は電車がやって来たら大人しく下がるだろうし、線路に飛び込む人がいたとして、彼らの抱えたものを思うと胸が痛むとはいえ、「電車に乗っている側」や「電車を運営する側」からすれば「迷惑だからやめてほしい」というのが本音だろう。

 

「理解できない人は下がって」の意味

 話を戻す。
 なぜ、このアナウンスが「理解できない人」に向けられているのかを確認したのだった。しかし、これでこのアナウンスが発するメッセージがすべて解読できたかといえば、そうではない。
 先に、普通のアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続く、と書いた。ところがこのアナウンスでは「下がって」の一言だ。ここには、①下がるべき理由が明かされていない、②下がる程度が明かされていない、③口調がぞんざいである、という三つの明確な違いが見て取れる。この違いこそ、真に注目すべき箇所だ。
 電車は公共の輸送システムであり、「体制に馴染んだ者」たちは、ふつう、「快速電車が通過する」ことの意味を知っている。ここに表れているのは、〈体制側/体制からはじかれた側〉、あるいはさらに露骨に〈強者/弱者〉の力関係ではないだろうか。もちろん、ここでいう強弱とは、頭に「社会的」という冠がつく。
 電車の運行を管理する立場のものは、「電車が通過する」という社会的記号が理解できない者に対して、不親切で乱暴な指示を与えることが許されている。そのことの是非は別の場所で論じられるべきだが、ともかくそれが「強者」が体現している価値観であり、また「弱者」はそれが「不親切で乱暴」であることにすら気づかず、訳もわからず「下がって」いることをしいられる
 漫画『三月のライオン』の中で、登場人物のひとりで中学生の川本ひなたが、主人公の桐山零に次のように語るシーンがある。

 

まるで
何かクラスの中に見えない階級とかがあって
その階級にあわせて
「どのくらい大きな声で笑っていい」とか
「教室の中でどのくらい楽しそうにふるまっていい」かが
決められてるみたいな…
そんなモノ ホントは無いはずなのに
でも
――でも確かにある
ずっとあった*2

 

 

 言うまでもなく、これはいわゆる「スクールカースト」についての描写だ。スクールカーストは学校という小さな社会における現象だが、同種の力関係が、実社会にも存在するのではないだろうか。強者だけがアクセスできる暗黙のコードのようなものが隠されていて、それを知っているか否かで、社会の中心部あるいは上層部にコミットできる度合いが決定されてしまうような。「そういうもの」の存在を感じている人は、少なくないのではないだろうか。
 あるいはそれは、権力の構図として読んでもいい。ともかくも、〈体制=権力=中心〉の側に位置する人間の、そうでない人間に対して(自覚的にであれ無自覚的にであれ)振りまいている暴力性が、「理解できない人は下がって」のひとことで端的に表されているのだ。

 

発話の場を考える

 次に、このアナウンスが発話された“場”についても考えてみよう。
 ヒントとなるのは「3番線」という言葉だ。
 僕の住んでいるアパートの最寄り駅である私鉄の駅には、ホームは2番線までしかない。「快速」に相当する「急行」の停車駅ではあるが、駅自体の規模としては、だからそれほど大きいとはいえないことになる。実家の最寄り駅であるJRの駅は、ローカル線の終点になっていることもあってホームは5番線まであり、快速電車もかならず停車する。
 するとこのアナウンスが流れている駅は、「ホームは3つ以上あるが、ときに快速電車が通過することもあるような規模」の駅だということがわかる。〈都市/郊外〉という二項対立構造を使って整理すれば、後者に属する駅だろう。しかし、2番線までしかなく、普通電車しか停車しない駅というわけでもない。
 こうした場所だからこそ、「理解できる人」と「できない人」が混在することになる。〈都市/郊外〉という構造は、そのまま〈中心/周縁〉という構造に置き換えることができる。そしてそれは紛れもなく、〈権力/非権力〉〈支配/被支配〉〈強者/弱者〉の構造でもあるはずだ。ところが、完全に都市から離れているわけではない。そこにいるのは、強者のコードにそもそも気づいていない人(すなわち「理解できない人」)たちだけではない。「快速電車が通過する」ことの意味を理解していながら、しかし快速電車の停車駅の近くには住めない、快速電車に乗れない、中心部にいることができない人々がいる駅なのだ。
 考えようによっては、彼ら「理解できる人」こそ、この駅のホームに立っていることを苦しいと感じる人たちなのかもしれない。「理解できない人」たちは、鉄道会社、あるいは快速電車に乗っている人たちという「強者」からの「下がって」というぞんざいな指令に対して「なんだか不愉快だ」と思うにとどまるだけかもしれないが、「理解できる人」たちは、強者のコードの存在を知っているにも関わらずそれにアクセスできない人たちであり、強者から「おまえたちは空気を読んで下がっていろ」という暗黙のメッセージを投げかけられている存在なのだから。そして、それに従わずに「下がらなかった」としたら、彼らに待っているのは走行中の電車との接触……社会からの排除なのである。

 

解釈するということ

 これから書くことは蛇足だが。
 上に、中澤系の「3番線…」という短歌の僕なりの解釈を書いた。ここで僕が思い出すのは、同じ中澤系による次の短歌だ。

 

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ*3

 

 まるで解釈されることを拒むような文言である。たしかに、ある表現を詳細に検討し、解釈していくことは、作者の感性の結晶、ひとつの完成形としてそこにある作品を「唾液まみれ」にしていく作業に他ならないのかもしれない。
 しかし、唾液酵素でデンプンを糖に分解することは、消化のためには欠かすことの出来ない作業なのである。時に野暮なことだと知りながら、作品を飲みこみ、吸収するために、咀嚼という行為をしてしまうのが読者という存在ではないだろうか。たとえ作者から、作品を「唾液まみれ」にしているといわれようとも。

 

 

※この記事は、Twitter上での企画「一歌談欒」のために書かれました。詳細は本ブログの同企画についての記事を参照してください。

*1:中澤系『uta0001.txt 新刻版』2015双風舎

*2:羽海野チカ3月のライオン 6巻』2011白泉社

*3:前出『uta0001.txt』

一歌談欒Vol.2

一首の短歌をとりあげて、複数人でその歌について語ろうという企画「一歌談欒」。第2弾のご案内を申し上げます。

 

今回の課題短歌は、

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)*1

 

です。
この短歌をもとにして、「解釈レポート」でも「感想文」でも「エッセイ」でもなんでも構いません、お好きな文章を書いてください。字数制限も特には設けません。

 

ブログやnoteなどの記事投稿サービスに記事を投稿していただいて、指定された日時にハッシュタグ「#一歌談欒」をつけてTwitterでリンクを共有してください。その後、当ブログ内で記事へのリンクをまとめさせていただきます。

 

記事の公開日時ですが、2016年11月5日(土)22:00~6日(日)20:00の間に公開してください。ハッシュタグをつけ忘れると僕が見つけられない可能性がありますので、ご注意のほどを願います。

 

なお、事前に参加を表明していただく必要は特にございません。記事の公開およびTwitterでのリンクの共有をもって参加とみなします。

 

 

 

なにかご不明な点等ございましたら、.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までリプライまたはDMでご連絡ください。
それでは、皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

 

 

※今回の課題短歌は、なべとびすこさん(Twitter:@nabelab00)からいただきました。

*1:中澤系『uta0001.txt』(新刻版)2015双風舎より引用

一歌談欒Vol.1まとめ

ある一首の短歌について、みんなで好きなことを語っていこうという企画、「一歌談欒」、第一回の参加エントリーまとめです。
今回は、

 

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)*1

という短歌についてみなさんに語っていただきました。
以下に、個別記事へのリンクをまとめておきます(Twitterハッシュタグ付きツイートが投稿された順)

 

まずはRyotaさんの記事。短歌の説明をしつつ、そこからRyotaさんが感じたことをエッセイ風にまとめてあるような文章でもあり、なにやら雑誌のコラムのようにも読めます。今月の一首、みたいな。

note.mu

 

続いて五條ひくいちさんの記事。「共感性」そして「驚き」というキーワードを軸にこの短歌を読み解いています。

【一歌談欒 vol.1 】短歌における共感性の扱い - ひくいちの研究室

 

続いては僕の記事です。割とゴリゴリの解釈レポート調。

dottoharai.hatenablog.com

 

次は中本速さん。「日焼け止め」に言及した方は多くいましたが、その解釈に独自の視点があります。

note.mu

 

続いて那須ジョンさんの記事です。「自意識」というキーワードを軸にこの歌を読み解いてくださいました。さらに、なんと自作の「アンサー短歌」まで添えて!

note.mu

 

 

次に、堂那灼風さんの記事。一首の短歌についての評を読んでいたと思ったら、いつの間にか「現代短歌とは?」という問を突き付けられてしまう。ある意味恐ろしい記事です。

note.mu

 

次。この企画の構想段階でお力を借りた「陰のブレーン」でもあるなべとびすこさんの記事。「おめん」と「日焼け止め」に着目しながら、他の参加者とは違うポイントへ着地しています。

nabelab00.hatenablog.com

 

続くもーたろさんは、この短歌をもとに実に妖しげな掌編を仕上げています。怪作とはこういうものを指すのでは。独自の表現が光ります。

note.mu

 

続いてさはらやさんの記事。「おめん」に着目して、友人のエピソードなどを引用しながら簡潔にまとめてくださいました。

saharaya.hatenablog.com

 

お次はえんどうけいこさん。自分の「へや」を「ユートピア」という位置づけにした上で、この主体の語り口から受ける印象への言及に独自の視点があります。

note.mu

 

続く中山とりこさんの記事では、やはり「おめん」と「日焼け止め」に注目した読みでありつつも、「普遍性」「絞り」という観点で短歌の表現について言及されていて深みが出ています。

note.mu

 

続いてはつちのこさんの記事です。下の句の表現に着目しながら、〈非現実的/現実的〉という軸を中心にこの歌を読み解いています。

tuchinocoe.hatenablog.jp

 

次は真香さんの記事。エッセイ調に仕立てていただきました。この短歌を読んでいく流れがリアルタイムで描写されているようで、短い記事の中にも時間の変化が感じられます。自作短歌も添えていただいてます。

shinkatanka.blog.fc2.com

 

続いて遠野頼さん。自分自身の場合に引きつけながら、ご自身の身体感覚に素直に読んだ結果を語っていただきました。

note.mu

 

続いてはかつらいすさんの記事です。「おめん」と「日焼け止め」というアイテムの間にある「ずれ」を軸に、この短歌、ひいては作者である今橋愛さんへの気持ちを綴っています。

note.mu

 

そして、西淳子さん。下の句への共感をもとに、「では、”何もつけずに”人と接する場合は?」というところまで踏み込んで書いています。

note.mu

 

kazaguruMaxさんは、ご自身の感覚に照らしつつ、「なにかつけ」て「そとへでる」こととその具体例が「日焼け止め」であることの関係について独自の解釈を見せています。

kazagurumax.hatenablog.com

 

太田青磁さんの記事では、主に表記の特徴や言葉のリズムなどに注目しながら、表現自体と内容の関係と効果を指摘しています。

seijiota.hatenablog.com

 

以上、17名(僕を除く)の方にご参加いただきました。ありがとうございます。
注目するポイントは重なったりもしながら、そこからたどり着く結論にバリエーションがあったりするなど、大変に面白く読ませていただきました。
一歌談欒、第二段以降も、よろしくお願いいたします!

*1:初出:今橋愛『O脚の膝』引用は山田航編著『桜前線開架宣言』によりました