人生ぬるま湯主義

つれづれなるままに以下略

理解できない人は下がって

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって*1

 

 

 中澤系による短歌である。駅のホームでのアナウンスだということはわかる。しかし、だとすると、いささか以上に奇妙なアナウンスだ。「3番線快速電車が通過します」。ここまではいい。しかし、僕たちが日常聞き慣れているあのアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続くところが、この歌では「理解できない人は下がって」となっているのだ。
 これから、この奇妙なアナウンスについて考えていきたい。問としては、大きく次の2点である。ひとつは、この奇妙なアナウンスが伝えるメッセージとは何なのか。そしてもうひとつは、このメッセージが発話される“場”とはどのようなものなのか

 

なぜ「理解できない人」が宛先なのか

 まずは、この短歌が切り取っているアナウンス、その伝えるメッセージを読み解いていきたい。まず上の句の「3番線快速電車が通過します」。これはただ事実を伝えているだけの言葉だ。続く「理解できない人は」の部分で宛先が指定され、「下がって」と指示が伝えられる。ここでいう「理解」する、の目的語は、上の句の内容「3番線快速電車が通過します」と捉えて問題ないだろう。
 
 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことが「理解できない人は下がって」
 
 というわけだ。いや、快速電車が通過する、という物理的現象というよりも、そのことがもたらす人間への影響(主には危険性)を、言いかえれば、快速電車が通過するということの意味を、「理解できない」と言った方がより適当かもしれない。するとこのアナウンスは、

 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことの意味が「理解できない人は下がって」

というふうに言葉を補ってまとめることができそうだ。
 駅を通過する快速電車は、ホームにいる人にとっては危険な存在だ。だから、危険を避けるためには後ろに下がる必要がある。このことに異論をはさむ余地はないだろう。問題はメッセージの宛先である。
 このアナウンスは、「理解できない人」に対して発せられているのである。なぜ、「理解できる人」に対しては「下がって」と言わないのか。
 考えてみれば、それは彼らが「理解できる人」だからに他ならないのではないだろうか。「理解できる人」たちは、快速電車が通過する、と聞いた時点で(この時点ではアナウンスの宛先は明かされていないから、彼らもアナウンスに耳を傾けているはずだ)、そのことが何を意味しているのかを理解し、適切な行動をとることができる。
 別の例を想像してみよう。お菓子などを買ったときに、袋の中に乾燥剤が入っていることがある。そこには「乾燥剤」の文字と、「たべられません」の注意書きが書いてあるはずだ。ところが、その注意書きを注視する大人は少ない。それが乾燥剤で、食べられないものであることを理解しているからだ。
 なにが危険で、どうしてはいけないか/どうするべきかを知っている人間には、「危険だからこうするな/こうしろ」という注意は意味を持たないのである。だから、「下がって」という指示は、もっぱら「理解できない人」に対して発せられることになる。
 余談だが、この記事を書くにあたって、グーグル検索で出てくるこの短歌の解釈についての記事をいくつか読んでみた。「理解できる人は下がらなくていい、飛び込む権利が保障されている」ということに大きな意味を見いだそうとする記事がいくつかあったように思う。だが、仮にそうだとして、たいていの「理解できる人」は電車がやって来たら大人しく下がるだろうし、線路に飛び込む人がいたとして、彼らの抱えたものを思うと胸が痛むとはいえ、「電車に乗っている側」や「電車を運営する側」からすれば「迷惑だからやめてほしい」というのが本音だろう。

 

「理解できない人は下がって」の意味

 話を戻す。
 なぜ、このアナウンスが「理解できない人」に向けられているのかを確認したのだった。しかし、これでこのアナウンスが発するメッセージがすべて解読できたかといえば、そうではない。
 先に、普通のアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続く、と書いた。ところがこのアナウンスでは「下がって」の一言だ。ここには、①下がるべき理由が明かされていない、②下がる程度が明かされていない、③口調がぞんざいである、という三つの明確な違いが見て取れる。この違いこそ、真に注目すべき箇所だ。
 電車は公共の輸送システムであり、「体制に馴染んだ者」たちは、ふつう、「快速電車が通過する」ことの意味を知っている。ここに表れているのは、〈体制側/体制からはじかれた側〉、あるいはさらに露骨に〈強者/弱者〉の力関係ではないだろうか。もちろん、ここでいう強弱とは、頭に「社会的」という冠がつく。
 電車の運行を管理する立場のものは、「電車が通過する」という社会的記号が理解できない者に対して、不親切で乱暴な指示を与えることが許されている。そのことの是非は別の場所で論じられるべきだが、ともかくそれが「強者」が体現している価値観であり、また「弱者」はそれが「不親切で乱暴」であることにすら気づかず、訳もわからず「下がって」いることをしいられる
 漫画『三月のライオン』の中で、登場人物のひとりで中学生の川本ひなたが、主人公の桐山零に次のように語るシーンがある。

 

まるで
何かクラスの中に見えない階級とかがあって
その階級にあわせて
「どのくらい大きな声で笑っていい」とか
「教室の中でどのくらい楽しそうにふるまっていい」かが
決められてるみたいな…
そんなモノ ホントは無いはずなのに
でも
――でも確かにある
ずっとあった*2

 

 

 言うまでもなく、これはいわゆる「スクールカースト」についての描写だ。スクールカーストは学校という小さな社会における現象だが、同種の力関係が、実社会にも存在するのではないだろうか。強者だけがアクセスできる暗黙のコードのようなものが隠されていて、それを知っているか否かで、社会の中心部あるいは上層部にコミットできる度合いが決定されてしまうような。「そういうもの」の存在を感じている人は、少なくないのではないだろうか。
 あるいはそれは、権力の構図として読んでもいい。ともかくも、〈体制=権力=中心〉の側に位置する人間の、そうでない人間に対して(自覚的にであれ無自覚的にであれ)振りまいている暴力性が、「理解できない人は下がって」のひとことで端的に表されているのだ。

 

発話の場を考える

 次に、このアナウンスが発話された“場”についても考えてみよう。
 ヒントとなるのは「3番線」という言葉だ。
 僕の住んでいるアパートの最寄り駅である私鉄の駅には、ホームは2番線までしかない。「快速」に相当する「急行」の停車駅ではあるが、駅自体の規模としては、だからそれほど大きいとはいえないことになる。実家の最寄り駅であるJRの駅は、ローカル線の終点になっていることもあってホームは5番線まであり、快速電車もかならず停車する。
 するとこのアナウンスが流れている駅は、「ホームは3つ以上あるが、ときに快速電車が通過することもあるような規模」の駅だということがわかる。〈都市/郊外〉という二項対立構造を使って整理すれば、後者に属する駅だろう。しかし、2番線までしかなく、普通電車しか停車しない駅というわけでもない。
 こうした場所だからこそ、「理解できる人」と「できない人」が混在することになる。〈都市/郊外〉という構造は、そのまま〈中心/周縁〉という構造に置き換えることができる。そしてそれは紛れもなく、〈権力/非権力〉〈支配/被支配〉〈強者/弱者〉の構造でもあるはずだ。ところが、完全に都市から離れているわけではない。そこにいるのは、強者のコードにそもそも気づいていない人(すなわち「理解できない人」)たちだけではない。「快速電車が通過する」ことの意味を理解していながら、しかし快速電車の停車駅の近くには住めない、快速電車に乗れない、中心部にいることができない人々がいる駅なのだ。
 考えようによっては、彼ら「理解できる人」こそ、この駅のホームに立っていることを苦しいと感じる人たちなのかもしれない。「理解できない人」たちは、鉄道会社、あるいは快速電車に乗っている人たちという「強者」からの「下がって」というぞんざいな指令に対して「なんだか不愉快だ」と思うにとどまるだけかもしれないが、「理解できる人」たちは、強者のコードの存在を知っているにも関わらずそれにアクセスできない人たちであり、強者から「おまえたちは空気を読んで下がっていろ」という暗黙のメッセージを投げかけられている存在なのだから。そして、それに従わずに「下がらなかった」としたら、彼らに待っているのは走行中の電車との接触……社会からの排除なのである。

 

解釈するということ

 これから書くことは蛇足だが。
 上に、中澤系の「3番線…」という短歌の僕なりの解釈を書いた。ここで僕が思い出すのは、同じ中澤系による次の短歌だ。

 

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ*3

 

 まるで解釈されることを拒むような文言である。たしかに、ある表現を詳細に検討し、解釈していくことは、作者の感性の結晶、ひとつの完成形としてそこにある作品を「唾液まみれ」にしていく作業に他ならないのかもしれない。
 しかし、唾液酵素でデンプンを糖に分解することは、消化のためには欠かすことの出来ない作業なのである。時に野暮なことだと知りながら、作品を飲みこみ、吸収するために、咀嚼という行為をしてしまうのが読者という存在ではないだろうか。たとえ作者から、作品を「唾液まみれ」にしているといわれようとも。

 

 

※この記事は、Twitter上での企画「一歌談欒」のために書かれました。詳細は本ブログの同企画についての記事を参照してください。

*1:中澤系『uta0001.txt 新刻版』2015双風舎

*2:羽海野チカ3月のライオン 6巻』2011白泉社

*3:前出『uta0001.txt』

一歌談欒Vol.2

一首の短歌をとりあげて、複数人でその歌について語ろうという企画「一歌談欒」。第2弾のご案内を申し上げます。

 

今回の課題短歌は、

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)*1

 

です。
この短歌をもとにして、「解釈レポート」でも「感想文」でも「エッセイ」でもなんでも構いません、お好きな文章を書いてください。字数制限も特には設けません。

 

ブログやnoteなどの記事投稿サービスに記事を投稿していただいて、指定された日時にハッシュタグ「#一歌談欒」をつけてTwitterでリンクを共有してください。その後、当ブログ内で記事へのリンクをまとめさせていただきます。

 

記事の公開日時ですが、2016年11月5日(土)22:00~6日(日)20:00の間に公開してください。ハッシュタグをつけ忘れると僕が見つけられない可能性がありますので、ご注意のほどを願います。

 

なお、事前に参加を表明していただく必要は特にございません。記事の公開およびTwitterでのリンクの共有をもって参加とみなします。

 

 

 

なにかご不明な点等ございましたら、.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までリプライまたはDMでご連絡ください。
それでは、皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

 

 

※今回の課題短歌は、なべとびすこさん(Twitter:@nabelab00)からいただきました。

*1:中澤系『uta0001.txt』(新刻版)2015双風舎より引用

一歌談欒Vol.1まとめ

ある一首の短歌について、みんなで好きなことを語っていこうという企画、「一歌談欒」、第一回の参加エントリーまとめです。
今回は、

 

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)*1

という短歌についてみなさんに語っていただきました。
以下に、個別記事へのリンクをまとめておきます(Twitterハッシュタグ付きツイートが投稿された順)

 

まずはRyotaさんの記事。短歌の説明をしつつ、そこからRyotaさんが感じたことをエッセイ風にまとめてあるような文章でもあり、なにやら雑誌のコラムのようにも読めます。今月の一首、みたいな。

note.mu

 

続いて五條ひくいちさんの記事。「共感性」そして「驚き」というキーワードを軸にこの短歌を読み解いています。

【一歌談欒 vol.1 】短歌における共感性の扱い - ひくいちの研究室

 

続いては僕の記事です。割とゴリゴリの解釈レポート調。

dottoharai.hatenablog.com

 

次は中本速さん。「日焼け止め」に言及した方は多くいましたが、その解釈に独自の視点があります。

note.mu

 

続いて那須ジョンさんの記事です。「自意識」というキーワードを軸にこの歌を読み解いてくださいました。さらに、なんと自作の「アンサー短歌」まで添えて!

note.mu

 

 

次に、堂那灼風さんの記事。一首の短歌についての評を読んでいたと思ったら、いつの間にか「現代短歌とは?」という問を突き付けられてしまう。ある意味恐ろしい記事です。

note.mu

 

次。この企画の構想段階でお力を借りた「陰のブレーン」でもあるなべとびすこさんの記事。「おめん」と「日焼け止め」に着目しながら、他の参加者とは違うポイントへ着地しています。

nabelab00.hatenablog.com

 

続くもーたろさんは、この短歌をもとに実に妖しげな掌編を仕上げています。怪作とはこういうものを指すのでは。独自の表現が光ります。

note.mu

 

続いてさはらやさんの記事。「おめん」に着目して、友人のエピソードなどを引用しながら簡潔にまとめてくださいました。

saharaya.hatenablog.com

 

お次はえんどうけいこさん。自分の「へや」を「ユートピア」という位置づけにした上で、この主体の語り口から受ける印象への言及に独自の視点があります。

note.mu

 

続く中山とりこさんの記事では、やはり「おめん」と「日焼け止め」に注目した読みでありつつも、「普遍性」「絞り」という観点で短歌の表現について言及されていて深みが出ています。

note.mu

 

続いてはつちのこさんの記事です。下の句の表現に着目しながら、〈非現実的/現実的〉という軸を中心にこの歌を読み解いています。

tuchinocoe.hatenablog.jp

 

次は真香さんの記事。エッセイ調に仕立てていただきました。この短歌を読んでいく流れがリアルタイムで描写されているようで、短い記事の中にも時間の変化が感じられます。自作短歌も添えていただいてます。

shinkatanka.blog.fc2.com

 

続いて遠野頼さん。自分自身の場合に引きつけながら、ご自身の身体感覚に素直に読んだ結果を語っていただきました。

note.mu

 

続いてはかつらいすさんの記事です。「おめん」と「日焼け止め」というアイテムの間にある「ずれ」を軸に、この短歌、ひいては作者である今橋愛さんへの気持ちを綴っています。

note.mu

 

そして、西淳子さん。下の句への共感をもとに、「では、”何もつけずに”人と接する場合は?」というところまで踏み込んで書いています。

note.mu

 

kazaguruMaxさんは、ご自身の感覚に照らしつつ、「なにかつけ」て「そとへでる」こととその具体例が「日焼け止め」であることの関係について独自の解釈を見せています。

kazagurumax.hatenablog.com

 

太田青磁さんの記事では、主に表記の特徴や言葉のリズムなどに注目しながら、表現自体と内容の関係と効果を指摘しています。

seijiota.hatenablog.com

 

以上、17名(僕を除く)の方にご参加いただきました。ありがとうございます。
注目するポイントは重なったりもしながら、そこからたどり着く結論にバリエーションがあったりするなど、大変に面白く読ませていただきました。
一歌談欒、第二段以降も、よろしくお願いいたします!

*1:初出:今橋愛『O脚の膝』引用は山田航編著『桜前線開架宣言』によりました

へやをでることはなにかつけること

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)*1

 

 生活への気づき、あるいは人生観、のようなものを詠んだ短歌です。以下で細かく見ていこうと思うのですが、注目するポイントは三点。「おめん」について、「日焼け止め」について、そして表記上の特徴についてです。

 

 

「おめん」とは何か

 はじめに、「おめん」について。
二句、三句で「具体的には日焼け止め」と言っていることから、初句の「おめん」は具体物ではない、抽象的なお面ということになります。抽象的なお面となれば、それはそのまま仮面(ペルソナ)のことを表しているのでしょう。
 ペルソナとはユングの用語で、河合俊雄さんは、次のように説明しています。

 

 もともと役者のつける仮面を意味したペルソナとは、個人が社会に対して示している顔である。それはたとえば職業であったり、家の中での役割であったり、年齢相応の行動であったりする。(…)ユングはペルソナを個人と社会との妥協形成と捉えている。それはペルソナによって社会という集合的なものからある一部が切り取られ、それによって個人的であることが可能になると同時に、ペルソナとは一般的で不変的なもので、それによって個人的なものが隠されてしまうからである。*2

 

 我々は他者と接するとき、それぞれの場で、それぞれの相手にふさわしい仮面をかぶって暮らしています。学校の先生に対しては生徒としての仮面、親に対しては子供としての仮面、上司に対しては部下としての仮面、後輩に対しては先輩としての仮面……というように。もちろん、場面に応じて適切な仮面をつけることができるということは「社会性がある」ということだから、仮面をつけること自体は、誰もがしていることです。
 ただ、誰もがしているということと、誰もが意識してしているということの間には隔たりがあります。社会に対して十分に適応している人ほど、自分が仮面をつけているという意識なしに、仮面を自在に付け替えているのではないでしょうか。自分が仮面をつけて生活しているということに自覚的になるのは、意識してそうせねば社会に合わせられない、社会的に不器用な、社会の「常識」や「多数派」にうまくなじめない人であるように思えます。
 四句、結句の「へやをでることはなにかつけること」という表現から、この短歌の主体は集合住宅でひとり暮らしをしていると推測されます。もちろん、家族と暮らしている家の中でも家族に対しての仮面をつける必要はありますが、相手が家族の場合、こちらが部屋から出ていかなくても部屋に入ってくることが頻繁にありそうです。「へやをでることは」という限定の表現からは、やはり、ひとり暮らしの部屋を読みとるのが妥当でしょう。
 また、同じ表現から、主体にはどうやら、部屋に招き入れる友人や恋人もいないということも推測できます。少なくとも、知人を部屋に招くということは主体の想定の内にはない。このあたりからも、うまく社会になじめずに、「おめん」をつけて「へやをでる」ことに窮屈さを感じている主体の人物像が浮かび上がってきます。

 

 

日焼け止めについて

 次の話に移りましょう。抽象レベルではペルソナ=社会的な顔を身につけて外出(自分の部屋は私的空間ですから、外出とはそのまま公的空間に身を置くこと、〈私/公〉、〈個人/社会〉の対立関係が見て取れることは明らかです)することを詠んでいるこの歌ですが、具体レベルで例として挙げられているアイテムは「日焼け止め」です。日焼け止めという具体物に注目することによって、何が読み取れるのか。
 さきほどペルソナとは仮面であるということを書きましたが、仮面とは「装う」機能を持っているものでもあります。見てほしい自分を演出する。いわば「攻め」の姿勢といえます。
 そうであれば、たとえばファンデーションとかアイラインとか、あるいは香水の類でもいいし指輪やネックレスでもいい(短歌の定型性をいったん無視すれば、の話ですが)。これらはいずれも自分を装う……見せたい自分を見せるための道具です。
 ところが日焼け止めとなると、やや性質が違います。日焼け止めとは、紫外線から肌を守るためのもの。そう、「守り」の道具です。最近はUVカット効果を謳っているファンデーションも販売されていますが、これは日焼け止めとは呼ばないでしょう。
 もちろん、日焼けをしないことによって肌を白く保つ、それは「装う」ことの一部であるという解釈もできるでしょう。しかし、「白」という色からはまた、「純粋」「ありのまま」といったイメージや、「繊細」「弱さ」といったイメージも連想されることも事実です。
 ちょっとしたことですぐにダメージを受けて傷ついてしまいかねない自分を守ること、そのためにしか社会的仮面を運用することができない、あるいは社会的仮面を運用する目的をそのためとしかとらえられない、徹底的に不器用で、社会になじめない主体のありようが、ここでも重ねて描かれているように思われます。

 

 

表記に注目する

 以上が表現の意味から読み取れる内容ですが、次に、表記についても注目してみましょう。「おめんとか」「へやをでることはなにかつけること」という平仮名のみの表記に、「具体的には日焼け止め」という漢字交じりの表記がはさまれています。この特徴的な表現から、何か読み取ることは可能でしょうか(実は今橋愛の短歌には平仮名表記を多用したものが他にも多くあるのですが、今回はあえて、この短歌に限って論じてみます)。
 加藤千恵の短歌に、

 

あなたへのてがみはぜんぶひらがなで げんじつかんをうすめるために*3

 

 というものがあります。普通なら漢字表記にするところを平仮名表記にすることで、どこか現実感が薄まってしまう。この感覚は、日本語を母語とする方には納得してもらえるかと思います。
 では、今橋愛のこの歌における現実感とは、いったいどのようなものでしょうか。僕はここにもさきほどまで見てきたような〈私/公〉という対立構造を読み取れるのではないかと思います。「つらい現実」などと言うときに僕たちが想像するのは、社会性込みの、自分を取り巻く環境ではないでしょうか。
 また、平仮名・片仮名の「仮名」に対して漢字は「真名」です。つまり、〈平仮名/漢字〉という構造はそのまま〈私/公〉と重ねることができる。むろん、この感覚は主に江戸時代ごろまでに共有されていたものであって現代人の我々にはなじみがないかもしれませんが、〈成長していない子供=無垢なるもの/成長した大人=無垢とは言えないもの〉という構造ならどうでしょう。平仮名しか読めない子供が、成長してから次第に漢字を読めるようになっていく、という発達段階に照らしたイメージです。
 「おめんとか」「へやをでることはなにかつけること」と考えている主体はいままさに「へや」の中で私的な時間を過ごしているわけですけれども、外界と接するときに身につける日焼け止めを見たとき、「へやをで」ていなかったとしても、条件反射的に外界を意識せずにはいられない。そのような感覚のゆらぎが、仮名書きと漢字表記を切り替えることによって表現されていると考えられます。

 

 

 

 ここまでで、この短歌についての僕の解釈はおしまいです。
 ペルソナの機能について実に実感的に描き出しているという点で、僕はこの歌を面白いし好きだなあ、と思います。また、こんなふうにしか生きられないタイプの人というのも、好もしく思えます。
 作者の今橋愛がユングの思想について詳しいのかどうかは知りませんし、僕の読みがすべて作者の想定通りだとも思いません(そんなことがあったら奇跡です)。ただ、この三十一文字から僕の手持ちの「解釈に使える武器」を駆使して「表現から読み取れること」を掬いとった結果を、つらつらと書きつらねたのでありました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。

 

 

※この記事は、Twitter上での企画「一歌談欒」のために書かれました。詳細は本ブログの同企画についての記事を参照してください。

*1:山田航編著『桜前線開架宣言』2015左右社

*2:河合俊雄『ユング 魂の現実性』2015岩波現代文庫

*3:加藤千恵ハッピーアイスクリーム』2001マーブルトロン

1/生存者

「1/生存者」(恋人を喪った安田短歌)


最大の山場はとうに過ぎ去ってエンドロールがまだ流れない

記憶とは断片だから君でなく君の断片しか愛せない

記憶とは断片だからお互いに支え合えずに剥がれてしまう

センチメンタリズムさえも錆びついて日常編に潰されていく

物語ではなくこれは歴史だし君も数字の1にすぎない

荒神がもう一度目を覚ましたら僕もそちらへ行けるだろうか







※「恋人を喪った安田短歌」は、映画「シン・ゴジラ」の登場人物である安田龍彦を題材にした二次創作短歌です。詳しくは次のリンクをご参照ください。

togetter.com

一歌談欒 Vol.1

一首の短歌をとりあげて、複数人でその歌について語ろうという企画「一歌談欒」。企画の内容と第一回の流れについて説明します。

 

【企画内容】

ある一首の短歌を「課題短歌」に設定し、参加者の方々には、その短歌を読んで、短歌をもとにした文章を書いていただきます。「この歌はこれこれこういう意味の歌で、そこから私はこのようなことを感じた」という具合です。
歌の解釈をめぐる読解レポートのような文章でも、短歌の内容にまつわるエッセイのような文章でも、好きにお書きください。
字数制限も特には設けません。書きたい方が、書きたいことを、書きたいだけ書いてください。

 

文章は各社のブログやnoteなどのサービスを使って書いていただき、それを指定された日/時間帯に公開→Twitterでリンクを共有、という流れで発表していただきます。Twitterに載せられたリンクは、後にこのブログ上でまとめを製作いたします。

 

 

【第一回】

さて、第一回となる今回の課題短歌は、

 

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)

 

 

です。この歌を題材に、ひとつの文章を書いてください。
(引用は山田航編著『桜前線開架宣言』によりました)

 

そのうえで、
2016年10月23日(日)の0時から22時までの間で、記事を公開、Twitterにリンクを投稿してください。
多少のフライングや遅れは構いませんが、特に大きく遅れて公開されますとこちらが見落としてしまう可能性があります。
Twitterへの投稿に際しては、ハッシュタグ「#一歌談欒」を忘れずにつけてください。まとめ作成の際に検索できなくなってしまいますので。

 

なお、事前に参加を表明していただく必要は特にございません。記事の公開およびTwitterでのリンクの共有をもって参加とみなします。

 

 

 

なにかご不明な点等ございましたら、.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までリプライまたはDMでご連絡ください。
それでは、皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

望月かすみ連作短歌「神様は熱中症」

「神様は熱中症」作:望月かすみ

 

君となら堕ちてゆくのを望むのに聖女に祀り上げられている

君のいう「なんでもない」は「不機嫌なわけはいいたくない」って意味だ

だとしてもこれはデートだ 帰るまで歯をくいしばり笑って過ごす

ふたりとも大はしゃぎした もうこれが最後だなんて忘れたふりで

おしまいは予想通りに訪れてわたしも予想通り傷つく

くっついて寝るからだって思ってた 君がいなくても夏は暑いね

サポイチを水も時間もきっちりとはかって作るわたしはえらい

きまぐれなやる気は時として罪だ 冷蔵庫にはしなびたレタス

(三文の得でペイするのか)出社前に着替えるため家に寄る

悩みなどない顔をして乗らないと排斥される通勤電車

はじめてのコンシーラーもそういえば首筋用に買ったんだっけ

缶ビールをグラスに注がず流しこむように飲みたい気分の夜だ

熱帯夜乗り越えた服剥ぎ取れば誰に見られるでもなく全裸

その自慢ぬるくなってくギムレットほったらかしにするほど大事?

〈ぼくだけが知ってるきみ〉が好きな人用の笑顔がいくつかあります

終電は各停なのであの駅を避けて早めの準急に乗る

指先が正確無比に定型句入力してる合コン帰り

ぜいたくで潤すこころ 百円じゃない日にミスタードーナツへゆく

溶け落ちたソフトクリーム こうやってわたしは夏にころされてゆく

二本目のワインが空になるまでに帰るかどうか決めとかなくちゃ

サバサバとしているように見せるのは得意 遊びの相手にならば

 十五年前のわたしへ。悪いけどステキな恋はあきらめなさい。

神様が熱中症で真夜中の無駄な涙を止めてくれない

もうすぐで秋がくるのに朝起きてひとりなことが不思議なままだ

居場所なんて変えても「そこ」が「ここ」になるだけってことに甘んじていく

 

 

 

※望月かすみは、根本博基の想像による架空の人物です。

www.utayom.in