人生ぬるま湯主義

つれづれなるままに以下略

へやをでることはなにかつけること

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)*1

 

 生活への気づき、あるいは人生観、のようなものを詠んだ短歌です。以下で細かく見ていこうと思うのですが、注目するポイントは三点。「おめん」について、「日焼け止め」について、そして表記上の特徴についてです。

 

 

「おめん」とは何か

 はじめに、「おめん」について。
二句、三句で「具体的には日焼け止め」と言っていることから、初句の「おめん」は具体物ではない、抽象的なお面ということになります。抽象的なお面となれば、それはそのまま仮面(ペルソナ)のことを表しているのでしょう。
 ペルソナとはユングの用語で、河合俊雄さんは、次のように説明しています。

 

 もともと役者のつける仮面を意味したペルソナとは、個人が社会に対して示している顔である。それはたとえば職業であったり、家の中での役割であったり、年齢相応の行動であったりする。(…)ユングはペルソナを個人と社会との妥協形成と捉えている。それはペルソナによって社会という集合的なものからある一部が切り取られ、それによって個人的であることが可能になると同時に、ペルソナとは一般的で不変的なもので、それによって個人的なものが隠されてしまうからである。*2

 

 我々は他者と接するとき、それぞれの場で、それぞれの相手にふさわしい仮面をかぶって暮らしています。学校の先生に対しては生徒としての仮面、親に対しては子供としての仮面、上司に対しては部下としての仮面、後輩に対しては先輩としての仮面……というように。もちろん、場面に応じて適切な仮面をつけることができるということは「社会性がある」ということだから、仮面をつけること自体は、誰もがしていることです。
 ただ、誰もがしているということと、誰もが意識してしているということの間には隔たりがあります。社会に対して十分に適応している人ほど、自分が仮面をつけているという意識なしに、仮面を自在に付け替えているのではないでしょうか。自分が仮面をつけて生活しているということに自覚的になるのは、意識してそうせねば社会に合わせられない、社会的に不器用な、社会の「常識」や「多数派」にうまくなじめない人であるように思えます。
 四句、結句の「へやをでることはなにかつけること」という表現から、この短歌の主体は集合住宅でひとり暮らしをしていると推測されます。もちろん、家族と暮らしている家の中でも家族に対しての仮面をつける必要はありますが、相手が家族の場合、こちらが部屋から出ていかなくても部屋に入ってくることが頻繁にありそうです。「へやをでることは」という限定の表現からは、やはり、ひとり暮らしの部屋を読みとるのが妥当でしょう。
 また、同じ表現から、主体にはどうやら、部屋に招き入れる友人や恋人もいないということも推測できます。少なくとも、知人を部屋に招くということは主体の想定の内にはない。このあたりからも、うまく社会になじめずに、「おめん」をつけて「へやをでる」ことに窮屈さを感じている主体の人物像が浮かび上がってきます。

 

 

日焼け止めについて

 次の話に移りましょう。抽象レベルではペルソナ=社会的な顔を身につけて外出(自分の部屋は私的空間ですから、外出とはそのまま公的空間に身を置くこと、〈私/公〉、〈個人/社会〉の対立関係が見て取れることは明らかです)することを詠んでいるこの歌ですが、具体レベルで例として挙げられているアイテムは「日焼け止め」です。日焼け止めという具体物に注目することによって、何が読み取れるのか。
 さきほどペルソナとは仮面であるということを書きましたが、仮面とは「装う」機能を持っているものでもあります。見てほしい自分を演出する。いわば「攻め」の姿勢といえます。
 そうであれば、たとえばファンデーションとかアイラインとか、あるいは香水の類でもいいし指輪やネックレスでもいい(短歌の定型性をいったん無視すれば、の話ですが)。これらはいずれも自分を装う……見せたい自分を見せるための道具です。
 ところが日焼け止めとなると、やや性質が違います。日焼け止めとは、紫外線から肌を守るためのもの。そう、「守り」の道具です。最近はUVカット効果を謳っているファンデーションも販売されていますが、これは日焼け止めとは呼ばないでしょう。
 もちろん、日焼けをしないことによって肌を白く保つ、それは「装う」ことの一部であるという解釈もできるでしょう。しかし、「白」という色からはまた、「純粋」「ありのまま」といったイメージや、「繊細」「弱さ」といったイメージも連想されることも事実です。
 ちょっとしたことですぐにダメージを受けて傷ついてしまいかねない自分を守ること、そのためにしか社会的仮面を運用することができない、あるいは社会的仮面を運用する目的をそのためとしかとらえられない、徹底的に不器用で、社会になじめない主体のありようが、ここでも重ねて描かれているように思われます。

 

 

表記に注目する

 以上が表現の意味から読み取れる内容ですが、次に、表記についても注目してみましょう。「おめんとか」「へやをでることはなにかつけること」という平仮名のみの表記に、「具体的には日焼け止め」という漢字交じりの表記がはさまれています。この特徴的な表現から、何か読み取ることは可能でしょうか(実は今橋愛の短歌には平仮名表記を多用したものが他にも多くあるのですが、今回はあえて、この短歌に限って論じてみます)。
 加藤千恵の短歌に、

 

あなたへのてがみはぜんぶひらがなで げんじつかんをうすめるために*3

 

 というものがあります。普通なら漢字表記にするところを平仮名表記にすることで、どこか現実感が薄まってしまう。この感覚は、日本語を母語とする方には納得してもらえるかと思います。
 では、今橋愛のこの歌における現実感とは、いったいどのようなものでしょうか。僕はここにもさきほどまで見てきたような〈私/公〉という対立構造を読み取れるのではないかと思います。「つらい現実」などと言うときに僕たちが想像するのは、社会性込みの、自分を取り巻く環境ではないでしょうか。
 また、平仮名・片仮名の「仮名」に対して漢字は「真名」です。つまり、〈平仮名/漢字〉という構造はそのまま〈私/公〉と重ねることができる。むろん、この感覚は主に江戸時代ごろまでに共有されていたものであって現代人の我々にはなじみがないかもしれませんが、〈成長していない子供=無垢なるもの/成長した大人=無垢とは言えないもの〉という構造ならどうでしょう。平仮名しか読めない子供が、成長してから次第に漢字を読めるようになっていく、という発達段階に照らしたイメージです。
 「おめんとか」「へやをでることはなにかつけること」と考えている主体はいままさに「へや」の中で私的な時間を過ごしているわけですけれども、外界と接するときに身につける日焼け止めを見たとき、「へやをで」ていなかったとしても、条件反射的に外界を意識せずにはいられない。そのような感覚のゆらぎが、仮名書きと漢字表記を切り替えることによって表現されていると考えられます。

 

 

 

 ここまでで、この短歌についての僕の解釈はおしまいです。
 ペルソナの機能について実に実感的に描き出しているという点で、僕はこの歌を面白いし好きだなあ、と思います。また、こんなふうにしか生きられないタイプの人というのも、好もしく思えます。
 作者の今橋愛がユングの思想について詳しいのかどうかは知りませんし、僕の読みがすべて作者の想定通りだとも思いません(そんなことがあったら奇跡です)。ただ、この三十一文字から僕の手持ちの「解釈に使える武器」を駆使して「表現から読み取れること」を掬いとった結果を、つらつらと書きつらねたのでありました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。

 

 

※この記事は、Twitter上での企画「一歌談欒」のために書かれました。詳細は本ブログの同企画についての記事を参照してください。

*1:山田航編著『桜前線開架宣言』2015左右社

*2:河合俊雄『ユング 魂の現実性』2015岩波現代文庫

*3:加藤千恵ハッピーアイスクリーム』2001マーブルトロン