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人生ぬるま湯主義

つれづれなるままに以下略

理解できない人は下がって

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって*1

 

 

 中澤系による短歌である。駅のホームでのアナウンスだということはわかる。しかし、だとすると、いささか以上に奇妙なアナウンスだ。「3番線快速電車が通過します」。ここまではいい。しかし、僕たちが日常聞き慣れているあのアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続くところが、この歌では「理解できない人は下がって」となっているのだ。
 これから、この奇妙なアナウンスについて考えていきたい。問としては、大きく次の2点である。ひとつは、この奇妙なアナウンスが伝えるメッセージとは何なのか。そしてもうひとつは、このメッセージが発話される“場”とはどのようなものなのか

 

なぜ「理解できない人」が宛先なのか

 まずは、この短歌が切り取っているアナウンス、その伝えるメッセージを読み解いていきたい。まず上の句の「3番線快速電車が通過します」。これはただ事実を伝えているだけの言葉だ。続く「理解できない人は」の部分で宛先が指定され、「下がって」と指示が伝えられる。ここでいう「理解」する、の目的語は、上の句の内容「3番線快速電車が通過します」と捉えて問題ないだろう。
 
 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことが「理解できない人は下がって」
 
 というわけだ。いや、快速電車が通過する、という物理的現象というよりも、そのことがもたらす人間への影響(主には危険性)を、言いかえれば、快速電車が通過するということの意味を、「理解できない」と言った方がより適当かもしれない。するとこのアナウンスは、

 これから、この駅の「3番線」を「快速電車が通過します」が、そのことの意味が「理解できない人は下がって」

というふうに言葉を補ってまとめることができそうだ。
 駅を通過する快速電車は、ホームにいる人にとっては危険な存在だ。だから、危険を避けるためには後ろに下がる必要がある。このことに異論をはさむ余地はないだろう。問題はメッセージの宛先である。
 このアナウンスは、「理解できない人」に対して発せられているのである。なぜ、「理解できる人」に対しては「下がって」と言わないのか。
 考えてみれば、それは彼らが「理解できる人」だからに他ならないのではないだろうか。「理解できる人」たちは、快速電車が通過する、と聞いた時点で(この時点ではアナウンスの宛先は明かされていないから、彼らもアナウンスに耳を傾けているはずだ)、そのことが何を意味しているのかを理解し、適切な行動をとることができる。
 別の例を想像してみよう。お菓子などを買ったときに、袋の中に乾燥剤が入っていることがある。そこには「乾燥剤」の文字と、「たべられません」の注意書きが書いてあるはずだ。ところが、その注意書きを注視する大人は少ない。それが乾燥剤で、食べられないものであることを理解しているからだ。
 なにが危険で、どうしてはいけないか/どうするべきかを知っている人間には、「危険だからこうするな/こうしろ」という注意は意味を持たないのである。だから、「下がって」という指示は、もっぱら「理解できない人」に対して発せられることになる。
 余談だが、この記事を書くにあたって、グーグル検索で出てくるこの短歌の解釈についての記事をいくつか読んでみた。「理解できる人は下がらなくていい、飛び込む権利が保障されている」ということに大きな意味を見いだそうとする記事がいくつかあったように思う。だが、仮にそうだとして、たいていの「理解できる人」は電車がやって来たら大人しく下がるだろうし、線路に飛び込む人がいたとして、彼らの抱えたものを思うと胸が痛むとはいえ、「電車に乗っている側」や「電車を運営する側」からすれば「迷惑だからやめてほしい」というのが本音だろう。

 

「理解できない人は下がって」の意味

 話を戻す。
 なぜ、このアナウンスが「理解できない人」に向けられているのかを確認したのだった。しかし、これでこのアナウンスが発するメッセージがすべて解読できたかといえば、そうではない。
 先に、普通のアナウンスなら「危険ですので白線の内側までお下がりください」などと続く、と書いた。ところがこのアナウンスでは「下がって」の一言だ。ここには、①下がるべき理由が明かされていない、②下がる程度が明かされていない、③口調がぞんざいである、という三つの明確な違いが見て取れる。この違いこそ、真に注目すべき箇所だ。
 電車は公共の輸送システムであり、「体制に馴染んだ者」たちは、ふつう、「快速電車が通過する」ことの意味を知っている。ここに表れているのは、〈体制側/体制からはじかれた側〉、あるいはさらに露骨に〈強者/弱者〉の力関係ではないだろうか。もちろん、ここでいう強弱とは、頭に「社会的」という冠がつく。
 電車の運行を管理する立場のものは、「電車が通過する」という社会的記号が理解できない者に対して、不親切で乱暴な指示を与えることが許されている。そのことの是非は別の場所で論じられるべきだが、ともかくそれが「強者」が体現している価値観であり、また「弱者」はそれが「不親切で乱暴」であることにすら気づかず、訳もわからず「下がって」いることをしいられる
 漫画『三月のライオン』の中で、登場人物のひとりで中学生の川本ひなたが、主人公の桐山零に次のように語るシーンがある。

 

まるで
何かクラスの中に見えない階級とかがあって
その階級にあわせて
「どのくらい大きな声で笑っていい」とか
「教室の中でどのくらい楽しそうにふるまっていい」かが
決められてるみたいな…
そんなモノ ホントは無いはずなのに
でも
――でも確かにある
ずっとあった*2

 

 

 言うまでもなく、これはいわゆる「スクールカースト」についての描写だ。スクールカーストは学校という小さな社会における現象だが、同種の力関係が、実社会にも存在するのではないだろうか。強者だけがアクセスできる暗黙のコードのようなものが隠されていて、それを知っているか否かで、社会の中心部あるいは上層部にコミットできる度合いが決定されてしまうような。「そういうもの」の存在を感じている人は、少なくないのではないだろうか。
 あるいはそれは、権力の構図として読んでもいい。ともかくも、〈体制=権力=中心〉の側に位置する人間の、そうでない人間に対して(自覚的にであれ無自覚的にであれ)振りまいている暴力性が、「理解できない人は下がって」のひとことで端的に表されているのだ。

 

発話の場を考える

 次に、このアナウンスが発話された“場”についても考えてみよう。
 ヒントとなるのは「3番線」という言葉だ。
 僕の住んでいるアパートの最寄り駅である私鉄の駅には、ホームは2番線までしかない。「快速」に相当する「急行」の停車駅ではあるが、駅自体の規模としては、だからそれほど大きいとはいえないことになる。実家の最寄り駅であるJRの駅は、ローカル線の終点になっていることもあってホームは5番線まであり、快速電車もかならず停車する。
 するとこのアナウンスが流れている駅は、「ホームは3つ以上あるが、ときに快速電車が通過することもあるような規模」の駅だということがわかる。〈都市/郊外〉という二項対立構造を使って整理すれば、後者に属する駅だろう。しかし、2番線までしかなく、普通電車しか停車しない駅というわけでもない。
 こうした場所だからこそ、「理解できる人」と「できない人」が混在することになる。〈都市/郊外〉という構造は、そのまま〈中心/周縁〉という構造に置き換えることができる。そしてそれは紛れもなく、〈権力/非権力〉〈支配/被支配〉〈強者/弱者〉の構造でもあるはずだ。ところが、完全に都市から離れているわけではない。そこにいるのは、強者のコードにそもそも気づいていない人(すなわち「理解できない人」)たちだけではない。「快速電車が通過する」ことの意味を理解していながら、しかし快速電車の停車駅の近くには住めない、快速電車に乗れない、中心部にいることができない人々がいる駅なのだ。
 考えようによっては、彼ら「理解できる人」こそ、この駅のホームに立っていることを苦しいと感じる人たちなのかもしれない。「理解できない人」たちは、鉄道会社、あるいは快速電車に乗っている人たちという「強者」からの「下がって」というぞんざいな指令に対して「なんだか不愉快だ」と思うにとどまるだけかもしれないが、「理解できる人」たちは、強者のコードの存在を知っているにも関わらずそれにアクセスできない人たちであり、強者から「おまえたちは空気を読んで下がっていろ」という暗黙のメッセージを投げかけられている存在なのだから。そして、それに従わずに「下がらなかった」としたら、彼らに待っているのは走行中の電車との接触……社会からの排除なのである。

 

解釈するということ

 これから書くことは蛇足だが。
 上に、中澤系の「3番線…」という短歌の僕なりの解釈を書いた。ここで僕が思い出すのは、同じ中澤系による次の短歌だ。

 

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ*3

 

 まるで解釈されることを拒むような文言である。たしかに、ある表現を詳細に検討し、解釈していくことは、作者の感性の結晶、ひとつの完成形としてそこにある作品を「唾液まみれ」にしていく作業に他ならないのかもしれない。
 しかし、唾液酵素でデンプンを糖に分解することは、消化のためには欠かすことの出来ない作業なのである。時に野暮なことだと知りながら、作品を飲みこみ、吸収するために、咀嚼という行為をしてしまうのが読者という存在ではないだろうか。たとえ作者から、作品を「唾液まみれ」にしているといわれようとも。

 

 

※この記事は、Twitter上での企画「一歌談欒」のために書かれました。詳細は本ブログの同企画についての記事を参照してください。

*1:中澤系『uta0001.txt 新刻版』2015双風舎

*2:羽海野チカ3月のライオン 6巻』2011白泉社

*3:前出『uta0001.txt』