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人生ぬるま湯主義

つれづれなるままに以下略

他者の欲望を欲望しない

この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい(笹井宏之)


 はじめて読んだとき、よくわからない歌だ、と思った。
 いまでも、よくわからない歌だ、と思っている。
 だから、以下では、この短歌の「わからなさ」について、書いてみよう。

・「この森」がわからない
 この森とは、この短歌の発話者がたまたま訪れている森なのか、住んでいる森なのか。西洋の童話に出てくるような森をイメージすればいいのか、日本の山の中の森を思い浮かべるべきなのか。わからない。

・「軍手を売って暮らしたい」がわからない
 そもそもその森は商売ができるような森なのか。軍手を作って売るのか仕入れてきて売るのか。誰の、どんか需要を見込んでいるのか。わからない。

・「間違えて図書館を建てたい」がわからない。
 間違えなかったらどうなるというのか。「~たい」と言っている時点で間違いではないのではないか。図書館を建てると何がうれしいのか。森に図書館を建てて利用者は訪れるのか。わからない。

 この短歌を読んでいるとき、僕の頭は、こうやって最初から最後まで「わからない」で埋め尽くされる。けれど、なぜそんなにもわからないのだろう。

 三句と結句が「~たい」で結ばれているから、欲求・欲望・願望を詠んだ歌であることはわかる。しかし、いささか以上に奇妙な願望だ。
 歌人枡野浩一は、『一人で始める短歌入門』の中で、


ネットでも探せるんだし もうちょっと素敵な部屋で引きこもりたい(シャイガイ)


 という短歌を取り上げて「奇妙な欲望短歌」だと指摘している。ここではその他の具体例として、


絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい(枡野浩一
シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい(斉藤斎藤
鎌倉で猫か誰かと暮らしたい 誰かでいいしあなたでもいい(佐藤真由美


 という三首が挙げられている。
 それでは今回取り上げている笹井宏之の短歌も同じような「奇妙な欲望短歌」として読めるのかというと、そう単純にはいかないのだ。上の四首と笹井の歌には、質的な違いがある。
 たしかに奇妙な欲望であるとはいえ、シャイガイの短歌は「快適な空間で過ごしたい」、枡野の短歌は「愛し合いたい」、斉藤の短歌は「恥ずかしい姿を見られたい」、佐藤の短歌は「理想の同居人がほしい」という欲望を詠んだものだ。奇妙にねじれていたり肥大していたりはするものの、その元となる欲望を、僕たちは知っている。
 ところが、「この森で軍手を売って暮らしたい」や「まちがえて図書館を建てたい」といった具体的欲望からは、僕たちが知っている抽象的欲望を取り出すことが困難なのだ。別の言い方をすれば、軍手を売ることや図書館を建てることが、どんな欲望を表す記号なのかが読みとれない、ということだ。
 つまり、この短歌の「わからなさ」というのは、表面的・具体的な「~たい」という願望が、どんな欲望のあらわれになっているのかさっぱりわからない、という「わからなさ」なのである。

 ある作品が「わからない」とき、読み手として僕らが選択できる態度は二通りある。ひとつは、「私には、この作品を理解するための知識や経験、あるいは感性が何かしら欠けているために理解できないのだ」と考えること。だが、それが何なのかを自分で意識的に発見することは、むずかしい。それでは「わからない!」と言ったまま話が終わってしまうので、ここでは、もうひとつの態度を採用してみようと思う。つまり、「わからないということに意味があるのだ」と考えるのである。
 
 人間の欲望の在り方について、「他者の欲望を欲望する」という言葉を残したのはジャック・ラカンだった。ところが笹井の短歌では、発話者は誰かが欲しいものを欲しがっているわけでも、誰かに欲されたいと思っているわけでもない。彼(彼女)の欲望は、完全に自己完結している。他人と共有されることのない、きわめてオリジナルな欲望だ。
 だから、読み手は、彼(彼女)の欲望を理解することができない。理解されてしまった時点で、それは「自分だけの欲望」ではなくなってしまうから。
 個性、というとき、僕たちは、「自分だけの特性」という意味で使っている。しかし、完全な個性などそうそうあるものではない。何を身につけ、何を読み、何を欲しがるか、そのそれぞれは、誰かと「被る」のがふつうだ。僕たちが「個性」と呼んでいるものは、その組み合わせ方に過ぎないのではないだろうか。
「同じものを欲している誰かがいる」という事実は、個性を少しだけ失わせるようでいて、同時に、「仲間がいる」という安心感も僕たちにもたらしてくれる。社会で人と繋がっていく、という感覚だ。
 けれども、「まちがえて図書館を建てたい」と語るこの人物は、それを拒絶する。彼(彼女)が表明している欲望は、彼(彼女)にしか理解できない、他者の欲望とは無縁の欲望である。逆に言えば、「完全にオリジナルな個性」を表明しようと思ったら、それは他の誰にも理解されない形になるしかない、ということを表している。

 でも、理解される必要のない欲望を、それでも言葉にする意味は何だろう。どこかで理解されたいと思っているのか、それとも、自分は理解できない人物だということを理解されたいのか。
 僕は、自分のいろいろな欲望だって、最終的には、誰かに理解されたい、と思う。誰にも伝わらない自分オリジナルの欲望は、まだ抱いたことがないし、今後も抱くことがないだろう。
 ゆえに、どうしても、この歌をめぐる議論は、次の一言に帰着してしまう。

 そう。「わからない」のだ。どうしても。