布編
ねんさん(@endofthe_)の、「人の短歌を文章にしたり、文章を短歌にしてもらったり」する企画に参加しました。第一弾です。
『布』と『ガラス』という2つのお題を決めて、『布』をテーマに詠んだ短歌をもとにに、ねんさんが文章を書いてくれました。ねんさんのブログでは『ガラス』でねんさんが書いた文章から短歌詠んでますので、そちらも合わせてよろしくどうぞ。→ http://endofthe.hatenablog.com/entry/2017/05/26/200112
わたしをくるむ布団の中のわたし/根本博基
健やかな日も病める日もこの部屋でまくらと布団だけはやさしい
晴れた日に外で布団を干しているベッドの上の心許なさ
泊まる気がない部屋にいて布団から柔軟剤のにおいだけがする
人肌とふれあうときに滑らかな布団カバーがやけに冷たい
だいじょうぶ 隣でねむる人がまたいなくなっても布団は残る
布団/ねん
寂しいんだ、俺。と、腕の中の男が言った。
いつも厚着をする人で、真夏でもTシャツの上に必ず長袖のパーカーを羽織っていた。理由を尋ねても優しく笑うだけだった。そのパーカーを脱がせて、Tシャツを脱がせて、裸で抱き合って、それではじめて、寂しいと言った。きみに包まれたい、それだけでいい、とも。赤ん坊のようにすがりついてくる彼を抱きしめて、彼の匂いのタオルケットをかけて、ふたりで眠った。
徐々に目を覚ます朝の街を、初夏の風に吹かれながら歩いた。時間に追われない朝は久しぶりで、いつもと違うことがしたくなった。シャワーを浴びてコーヒーを飲んで、そうだ、と思い立ってベランダに布団を干した。部屋を振り返るとベッドだけが気まずそうに佇んでいる。学生の頃から使っているベッドはもうだいぶ古くなって、寝返りを打つたびにキシキシ音を立てる。それが好きだった。洗濯をして買い物に出たらあっという間に夕方で、布団を取り込んでベッドに敷いた。なんとなく寝転んでみる。ひんやり冷たくて、春と夏の間の匂いがして、きもちよかった。結局これが好きなのだ。ずっと前から分かっていたような気もする。いつだってだれかを傷つけて、そのくせ包み込んでほしくて、いつもここで布団にくるまっていた。人と関わることを恐れて、面倒がって、逃げて、それでも彼は、私がいいと言ったのに。
冷たい布団は、いつまでもあたたまることはなかった。ただひたすらに私のからだを包んでいた。
一歌談欒Vol.3まとめ
ある一首の短歌について、みんなで好きなことを語っていこうという企画、「一歌談欒」、第二回の参加エントリーまとめです。
今回は、
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい(笹井宏之)*1
という短歌についてみなさんに語っていただきました。
以下に、個別記事へのリンクをまとめておきます(Twitterにハッシュタグ付きツイートが投稿された順)
作者である笹井宏之の伝記的記述からこの歌にアプローチしたなべとびすこさん。
上の句と下の句の対称性と共通性を整理した中本速さん。
ちょっと幻想的なエッセイ風味に仕上げたRyotaさん。
上の句から下の句への「飛躍」について考察したさはらやさん。
口語自由詩仕立てのえんどうけいこさん。
「まちがえて」という語句を掘り下げて考察した太田青磁さん。
短歌をもとに掌編小説を書いたもーたろさん。
「空想エッセイ」のような文章になっているkazaguruMaxさん。
この短歌を「祈りの歌」として読んだとがしゆみこさん。
この歌の「わからなさ」をめぐって云々した私。
参加いただいた方、また、それぞれの記事を読んでいただいたかた、ありがとうございました。
真面目さと深刻さについて
もうしばらくまえのことになるけれど、『シン・ゴジラ』について、この映画を観ている最中に笑う人のことが理解できない、という感想を縷々綴っている御仁を目撃した。(http://www.goodbyebluethursday.com/entry/shingodzilla_review)
有事の際にまっさきにストレスで「戦闘不能」になってしまいそうな方だな、と思った。
深刻な事態において人は深刻で真面目な、表情をして、一切のユーモアや笑いは廃されるべきである、と主張する人がいる。申し訳ないけれども、そんな「真面目さ」は「“クソ”真面目」以外の何者でもないと、僕は思う。
この手のクソ真面目さは、己の健全な思考力を失わせ、のみならず攻撃的になり周囲の人間をげんなりさせるという悪影響こそあれ、けっして好ましい効果を及ぼしはしない。
“笑う哲学者”こと土屋賢二氏は、エッセイの中で、笑いには対象の重要性をはぎとるという攻撃性があるとしたうえで、次のように述べている。
「笑うことができるのは人間だけである。コンピュータも動物も笑えない。このことは笑いが高級であることを示すものではない(罪を犯すのも締切を守らないのも人間だけなのだ)。むしろ、人間だけが笑う必要があることを示しているように思う。人間はさまざまなもほを過度に重要視する強い傾向がある。こだわっている対象を笑って攻撃することによってこころのバランスを保つ必要があるのだ。」(土屋賢二『人間は笑う葦である』2001、文春文庫)
困難…とまではいかないものの、ストレスを感じる状況に直面したとき、健全な精神を保つためには笑いが必要である。思わず顔がこわばってしまうようなシチュエーションでどれだけリラックスした笑みを浮かべられるかということに、あなたのタフさが試されていると言ってもいい。
とはいうものの、当意即妙のユーモアでもってして笑いを生み出すのは難しいかもしれない。
しかし、安心されたし。
自分の心の余裕さえ生めばよいというのであれば、かならずしも機転をきかせてユーモアを発揮しなければならぬということもない。
こんな実験があったそうだ。
被験者に、ペンを口にくわえて漫画を読んでもらう。かたや、ペンを縦に(「う」の口で)くわえて、かたや、ペンを横に(「い」の口で)くわえて。
すると、後者の方が読んだ漫画を面白いと感じる割合が高くなったというのだ。理由は、口の形が笑顔になっているから。(https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html)
心理状態が身体的振る舞いや態度に表れることは、誰でも経験的に知っている。けれども、逆に、身体的振る舞いや態度もまた、心理状態に影響を及ぼすのである。
だから、心に余裕をもちたかったら、ひとまず余裕がある振る舞いをすることだ。そうすれば、心の余裕はあとからついてくる。
諸君、肩の力を抜き、深刻な顔をやめて笑顔になりたまえ。真剣な話をするのは、それからでも遅くない。
笑いをもって貴しとなし、仏頂面となることなきをむねとせよ。
他者の欲望を欲望しない
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい(笹井宏之)*1
はじめて読んだとき、よくわからない歌だ、と思った。
いまでも、よくわからない歌だ、と思っている。
だから、以下では、この短歌の「わからなさ」について、書いてみよう。
・「この森」がわからない
この森とは、この短歌の発話者がたまたま訪れている森なのか、住んでいる森なのか。西洋の童話に出てくるような森をイメージすればいいのか、日本の山の中の森を思い浮かべるべきなのか。わからない。
・「軍手を売って暮らしたい」がわからない
そもそもその森は商売ができるような森なのか。軍手を作って売るのか仕入れてきて売るのか。誰の、どんか需要を見込んでいるのか。わからない。
・「間違えて図書館を建てたい」がわからない。
間違えなかったらどうなるというのか。「~たい」と言っている時点で間違いではないのではないか。図書館を建てると何がうれしいのか。森に図書館を建てて利用者は訪れるのか。わからない。
この短歌を読んでいるとき、僕の頭は、こうやって最初から最後まで「わからない」で埋め尽くされる。けれど、なぜそんなにもわからないのだろう。
三句と結句が「~たい」で結ばれているから、欲求・欲望・願望を詠んだ歌であることはわかる。しかし、いささか以上に奇妙な願望だ。
歌人の枡野浩一は、『一人で始める短歌入門』(2007、ちくま文庫)の中で、
ネットでも探せるんだし もうちょっと素敵な部屋で引きこもりたい(シャイガイ)
という短歌を取り上げて「奇妙な欲望短歌」だと指摘している。同じページではその他の具体例として、
絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい(枡野浩一)
シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい(斉藤斎藤)
鎌倉で猫か誰かと暮らしたい 誰かでいいしあなたでもいい(佐藤真由美)
という三首が挙げられている。
それでは今回取り上げている笹井宏之の短歌も同じような「奇妙な欲望短歌」として読めるのかというと、そう単純にはいかないのだ。上の四首と笹井の歌には、質的な違いがある。
たしかに奇妙な欲望であるとはいえ、シャイガイの短歌は「快適な空間で過ごしたい」、枡野の短歌は「愛し合いたい」、斉藤の短歌は「恥ずかしい姿を見られたい」、佐藤の短歌は「理想の同居人がほしい」という欲望を詠んだものだ。奇妙にねじれていたり肥大していたりはするものの、その元となる欲望を、僕たちは知っている。
ところが、「この森で軍手を売って暮らしたい」や「まちがえて図書館を建てたい」といった具体的欲望からは、僕たちが知っている抽象的欲望を取り出すことが困難なのだ。別の言い方をすれば、軍手を売ることや図書館を建てることが、どんな欲望を表す記号なのかが読みとれない、ということだ。
つまり、この短歌の「わからなさ」というのは、表面的・具体的な「~たい」という願望が、どんな欲望のあらわれになっているのかさっぱりわからない、という「わからなさ」なのである。
ある作品が「わからない」とき、読み手として僕らが選択できる態度は二通りある。ひとつは、「私には、この作品を理解するための知識や経験、あるいは感性が何かしら欠けているために理解できないのだ」と考えること。だが、それが何なのかを自分で意識的に発見することは、むずかしい。それでは「わからない!」と言ったまま話が終わってしまうので、ここでは、もうひとつの態度を採用してみようと思う。つまり、「わからないということに意味があるのだ」と考えるのである。
人間の欲望の在り方について、「他者の欲望を欲望する」という言葉を残したのはジャック・ラカンだった。ところが笹井の短歌では、発話者は誰かが欲しいものを欲しがっているわけでも、誰かに欲されたいと思っているわけでもない。彼(彼女)の欲望は、完全に自己完結している。他人と共有されることのない、きわめてオリジナルな欲望だ。
だから、読み手は、彼(彼女)の欲望を理解することができない。理解されてしまった時点で、それは「自分だけの欲望」ではなくなってしまうから。
個性、というとき、僕たちは、「自分だけの特性」という意味で使っている。しかし、完全な個性などそうそうあるものではない。何を身につけ、何を読み、何を欲しがるか、そのそれぞれは、誰かと「被る」のがふつうだ。僕たちが「個性」と呼んでいるものは、その組み合わせ方に過ぎないのではないだろうか。
「同じものを欲している誰かがいる」という事実は、個性を少しだけ失わせるようでいて、同時に、「仲間がいる」という安心感も僕たちにもたらしてくれる。社会で人と繋がっていく、という感覚だ。
けれども、「まちがえて図書館を建てたい」と語るこの人物は、それを拒絶する。彼(彼女)が表明している欲望は、彼(彼女)にしか理解できない、他者の欲望とは無縁の欲望である。逆に言えば、「完全にオリジナルな個性」を表明しようと思ったら、それは他の誰にも理解されない形になるしかない、ということを表している。
でも、理解される必要のない欲望を、それでも言葉にする意味は何だろう。どこかで理解されたいと思っているのか、それとも、自分は理解できない人物だということを理解されたいのか。
僕は、自分のいろいろな欲望だって、最終的には、誰かに理解されたい、と思う。誰にも伝わらない自分オリジナルの欲望は、まだ抱いたことがないし、今後も抱くことがないだろう。
ゆえに、どうしても、この歌をめぐる議論は、次の一言に帰着してしまう。
そう。「わからない」のだ。どうしても。
一歌談欒Vol.3
一首の短歌をとりあげて、複数人でその歌について語ろうという企画「一歌談欒」。第3弾のご案内を申し上げます。
今回の課題短歌は、
です。
この短歌をもとにして、「解釈レポート」でも「感想文」でも「エッセイ」でもなんでも構いません、お好きな文章を書いてください。字数制限も特には設けません。
ブログやnoteなどの記事投稿サービスに記事を投稿していただいて、指定された日時にハッシュタグ「#一歌談欒」をつけてTwitterでリンクを共有してください。その後、当ブログ内で記事へのリンクをまとめさせていただきます。
記事の公開〆切は、2016年12月18日20時とさせていただきます。
ハッシュタグをつけ忘れると僕が見つけられない可能性がありますので、ご注意のほどを願います。
なお、事前に参加を表明していただく必要は特にございません。記事の公開およびTwitterでのリンクの共有をもって参加とみなします。
なにかご不明な点等ございましたら、.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までリプライまたはDMでご連絡ください。
それでは、皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。
※今回の課題短歌は、前回に引き続きなべとびすこさん(Twitter:@nabelab00)からいただきました。
岡本真帆さんはこんな短歌を詠んでいるんだぜ(20選シリーズ)
じゃんけんパー勝って飛びつくえりあしは塩素のにおい 夏が始まる
無駄なことばかりしようよ自販機のボタン全部を同時押しとか
ドリンクバー押すと交互に降り注ぐコーラとコーラではない何か
さわやかな風がそろりと入る網戸バリバリバリバリねこバリバリバリ
ゴミだって思ってみたび触れてしまう表紙の中の小さな鳥に
本来の服の持ち味殺してる私の服の組み合わせ方
砂浜のSOSを踏み潰し、ここは異常のない無人島
特別なことは一つも訪れずさなぎのままで秋の制服
たいせつな話なら今聞きたくない 遮るための電車を願う
くるくると夏のコンパス正しさを描いてふたり離れて眠る
謝らない通行人の頭部見る 傘の先端とんがっている
無駄なことだと言う大人 無駄であることがどうして分かるのだろう
壊れたものでもかまいません壊れたものでもかまいません、かまいませんから
廃線をたどっていこう これ以上雑踏に染まるのはごめんだ
感情をあまり出さない君がする嬉しいときのへたなスキップ
シャーペンの芯を逆流させている君には罪の意識などない
新しい顔はもういい バタコさんきちんと死ねる心臓をくれ
まきびしのはずだったのに敵陣にはじけるこんぺいとうこんぺいとう
まだ何かあるんじゃないかと期待するエンドロールの後の一瞬
何気なく打った数字で開く鍵 ねえこの四桁って、わたしの
(written by 岡本真帆:https://note.mu/mapiction)
岡本真帆さんの短歌には、どこか寂しげな雰囲気のものが多い。寂しげ…というか、心の中に何か欠けた部分を持っている主体を感じるような。「ここではないどこか」へ行きたがっている、と言ってもいいかもしれない。
日常の景色を歌った寂しげな歌の中に、非日常を歌ったドキッとするようなサスペンスめいた歌も登場する。
静かなトーンなんだけれども、それは「何かを抑えている静かさ」なのかもしれない、と感じられるような、そんな短歌の数々。
ぬいぐるみ抱いた少女はあの日々に置き去りにした ごめんね 走る(根本博基)
一歌談欒Vol.2まとめ
ある一首の短歌について、みんなで好きなことを語っていこうという企画、「一歌談欒」、第二回の参加エントリーまとめです。
今回は、
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)*1
という短歌についてみなさんに語っていただきました。
以下に、個別記事へのリンクをまとめておきます(Twitterにハッシュタグ付きツイートが投稿された順)
本条さん。
下の句の表現について、様々な可能性を提示しながら考察し、感じたことをまとめています。
遠音さん。
この歌から感じた死のにおいとそれに対する恐怖について。
五條ひくいちさん。
フロイトを援用しつつ、「死への魅力」を軸にこの歌を読み解いています。
【一歌談欒 vol.2 】ポエジーに触れるということ - ひくいちの研究室
本多響乃さん。
短歌を頭から読みながら、その文字列から受ける印象を語っています。文学フリマ東京2016、足を運べるかたは、是非。
中本速さん。
テンポのいいリズミカルな文体で、「理解できない人は下がって」について語っています。
さはらやさん。
快速電車を理不尽な社会の象徴と捉え、「下がって」という言葉の解釈に独自性があります。
なべとびすこさん。
今回のテーマ短歌の発案者でもあります。暗いイメージで読まれることの多いこの歌をポジティブにとらえています。さはらやさんの読みとも通じる部分あり。
中家菜津子さん。
短歌結社誌「未来」掲載の過去記事をツイートしていただきました。
未来の中澤系特集で書いた原稿貼っておきますね。#一歌談欒 pic.twitter.com/4twn8QPNqS
— 中家菜津子 (@NakaieNatsuko) 2016年11月5日
宮本背水さん。
テーマ短歌が伝えるメッセージは「伝わらないメッセージ」だとした上で、「理解できない人」に対して「理解できる人」、加えて「理解しようとした人」という存在を仮定して考察しています。
太田青磁さん。
テーマ短歌の鑑賞から入り、収録歌集『uta0001.txt』にも言及されています。
.原井。
下の句「理解できない人は下がって」の伝えるメッセージと、この発話が成される場について考察してみました。
中山とりこさん。
作者である中澤系さんのプロフィール等をもとに短歌を読み解こうという試み。ご本人がこの歌から思い出したエピソードも。
中澤瓈光さん。
テーマ短歌の作者である中澤系さんの妹さんからもご寄稿いただけました。この歌を通して、中澤系さんについての短いエッセイです。
#一歌談欒 2 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系 (『uta0001.txt』(新刻版)、双風舎)
Ryotaさん。
ミシェル・ゴンドリーの手によるミュージックビデオを引用しながら仕上げられたエッセイは、読者のものの感性に揺さぶりをかけるようです。
冨樫由美子さん。
テーマ短歌の「改悪例」を示すことによって、表現の「かけがえのなさ」を指摘。
えんどうけいこさん。
下の句「理解できない人は下がって」から感じる冷たさについて。
朝胡さん。
テーマ短歌をもとに掌編小説を書いていただきました。
kazaguruMaxさん。
「理解」という語について、感じることを様々書いていただきました。
堂那灼風さん。
短歌の宗教的・精神的性格から切りこんで、テーマ短歌を考察しています。
安堂霊さん。
テーマ短歌の言葉の冷たさと無機質さについて。
ナタカさん。
ひとつのツイートに収まる分量で完結に語っていただきました。
電車が通過すること(撥ねられたら死ぬこと)が理解できない人は下がって、の意味だと思っていた。「死ぬことの重みが分からない人は下がれ」というときつい言い方に思えるけれど、「あまり簡単に死のうとするな」と解釈すると厳しさばかりでない優しさを見いだすことができるかもしれない。#一歌団欒
— ナタカ (@natakauta) 2016年11月6日
西淳子さん。
「なぜ3番線なのか?」「理解できる人は?」というふたつの問いについて。
みちくささん。
「駅のアナウンス」からマニュアル社会を連想し、それを軸にテーマ短歌を読んでいます。
カメヤママコトさん。
「ディストピア」をキーワドにこの短歌について語ったツイートです。
#一歌談欒 として昔3番線の歌について書いたツイートを引用してみる。 https://t.co/ipf5rn8627
— カメヤマ マコト (@nukimidaru) 2016年11月6日
麟太さん。
テーマ短歌をもとにした、駅のホームを舞台にしたエッセイのような小説のような。思索的ですがどこか詩的な雰囲気のある文章です。
以上、24名(僕を除く)の方にご参加いただきました。ありがとうございます。
一歌談欒、今後もどうぞよろしくお願いいたします!
なお、一歌談欒ではテーマ短歌を募集中です。「この短歌が好きだからみんなにもかってほしい」「この短歌、よくわからないからみんなの意見が知りたい」「いいから俺の歌を読め」等、読んで語りたい短歌を.原井(Twitter ID:@Ebisu_PaPa58)までお寄せくださいませ!